自戦の検討と、将棋仲間との交遊録。twitterアカウントは、『@ike_rui』です。
時には昔の話を
観戦記者として知られる、松本博文氏の『東大駒場寮物語』をを読了。
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この駒場寮は、1923年の関東大震災後に建築され、
2002年の明け渡しまで、東大の駒場キャンパス内にあった学生寮だ。
北寮、中寮、明寮の3棟があり、全寮制の旧制一高の寮として、往時は数百人が暮らしていた。
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私は受験生の頃、NHKの列島リレードキュメントで駒場寮の番組を見て、
その魅力に惹かれて、1995年春に新入寮生として北寮25Bに入寮した。
著者の松本氏は大学3年で、中寮3Bに住んでいた。
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駒場寮の特長は、学生による自主管理という点で、大学や大人はノータッチ。
寮生で委員会を作り、自治・自主で運営されるのが伝統だった。
20歳前後の学生達(実際には多留する人が多い)による、相部屋での共同生活。
夜を徹して麻雀を打ち、鍋を囲み、語り合い、毎日が修学旅行のようで、私の青春といえば、この駒場寮だ。
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反面、キャンパス内にあるこの寮は学生の政治活動の根城となり、大学側は廃寮計画を進めた。
私の在寮中に裁判闘争になり、大学側はガードマンを雇い、寮生の排除を計画した。
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大学側の不当な廃寮計画に抗議するため、集会も行った。
団交の席上で、当時の蓮實重彦教養学部長が、我々寮生を
「キャンパスに巣くうゴキブリ」と発言したことに対し、「いまの発言を撤回しろ!」と大勢で詰め寄り、
ネクタイをぐいぐい引っ張ったのも、若気の至りということで勘弁な。
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1997年にはついに電気の供給がストップされ、平成の世だというのに、我々は電気なしで生活していた。
寮委員会からはランタンが配布され、夜は一部の部屋だけに発電機を使って電気を供給していた。
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廃寮計画を進める教養学部の教授陣の中にも、駒寮OBはおり、内心では計画に反対の教授もいた。
今ではもう時効だが、教授会で決まった強制執行の日時を漏えいしてくれる人もいた。
決戦に備え、近所の工務店から資材を調達し、生コンを練り、堅牢なバリケードを構築した。
京大吉田寮・北大恵迪寮・山形大学寮など全国の自治寮からも応援が来ていた。
大学側は、夏休み期間中でキャンパス内に学生が少ない2001年8月22日の早朝に、強制執行を強行。
不測の事態に備え、目黒の第三機動隊が、山手通り沿いに待機していたのを今でも覚えている。
寮生が作ったコンクリ製のバリケードは、大学側が雇った帝国警備保障のガードマンと重機で
一瞬で破壊され、ついに駒場寮は陥落し、78年間の歴史に幕を閉じた。
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結果的に廃寮になってしまったが、駒場寮の歴史と、
その時代を謳歌した寮生の思いが、本書によって活字として残されるのは、何よりだと思う。
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駒場寮
なつかしい光景です。1972-75の3年間過ごしました。でも田舎から出てきて初めて見た時は「鳥小屋」かなと思いあとで自分がすむ所と知って驚愕しました。天野杯でのチーム名は長く言うと、「東大駒場駅前南口雀荘いりえ」で将棋部の部室代わりとなっていました。
2015/12/25(金) 13:08:00 | URL | 雀荘いりえ幹事 #bW9LYnu. [ 編集 ]
コメントありがとうございます。
私は1995-1999まで在寮していました。

先日駒場祭で訪問したのですが、
南口商店街には、たこ焼きみしま、
弁当もっくもっく、キッチン南海など、
まだ健在でした。

天野杯の際にでも、ぜひお話をお伺いさせてください。
2015/12/25(金) 13:37:51 | URL | いけるい #- [ 編集 ]
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